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東京地方裁判所 平成4年(ワ)6347号 判決

主文

一  原告が別紙目録記載の株式を有することを確認する。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを一〇分し、その三を原告の、その余を被告の、それぞれ負担とする。

理由

一  本件の争点

本件における原告の請求は、要するに、原告から被告に対する本件株式の譲渡の効力を争い、原告が本件株式を有することの確認を求めるとともに、被告が原告の信頼を裏切つたとして金三〇〇万円の慰謝料の支払とを求めるものであるから、まず、本件株式譲渡の効力について判断する。

二  本件株式譲渡の効力について

1  請求原因1及び2記載の各事実(原告が東京都目黒区《番地略》所在の甲野興業社の代表取締役(会長)であり、同社の株式二〇〇株(株券は未発行)を所有していたこと、被告が原告の三女である訴外秋子の夫で、甲野興業社の代表取締役(社長)であること、被告が平成二年一二月一七日に原告から原告が所有していた本件株式(一四〇株)を代金七〇〇万円で買い受けたと主張していること)は当事者間に争いがない。

2  次に、抗弁(本件株式の譲渡)について判断する。

(一)  抗弁1記載の事実(被告が昭和四八年一〇月に原告の三女である訴外秋子と婚姻し、訴外秋子の父親で原告の夫であつた故太郎の要請により、昭和四九年七月頃から故太郎が目黒区《番地略》の借地上に建築した丁原ビル(地上五階・地下二階建て)で営んでいた中華料理店「戊田」の経営を任されていたこと)、抗弁2記載の事実のうち、故太郎が昭和六〇年一月三〇日に死亡したことにより故太郎の財産は原告と三人の娘達が相続したこと、原告が全額出資して平成二年四月二六日に正式に設立された甲野興業社が丁原ビルの管理や戊田の経営を行うようになつたこと、抗弁3記載の事実のうち、平成二年一二月九日に戊田の「黄玉」の間で甲野興業社の株主総会が開催されたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

(二)  右当事者間に争いがない事実と、《証拠略》によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 被告は、昭和四八年一〇月に原告と故太郎の三女である訴外秋子と婚姻した当時は衆議院議員の秘書をしていたが、昭和四九年七月頃から、故太郎が目黒区《番地略》に建築した丁原ビルで営んでいた中華料理店「戊田」の「総支配人」として経営を任されるようになつた。なお、故太郎は、昭和五〇年頃以降、中央競馬会の競走馬の馬主や乙原環境衛生同業組合の会長などの活動を盛んに行い、戊田には朝と晩に顔を出して被告から経営状況の説明を受ける程度であつた。

(2) 故太郎は昭和六〇年一月三〇日に死亡し、その葬儀や法律は被告が中心となつて行われたが、丁原ビルの所有権やこの土地の借地権を含む故太郎の財産は、原告と長女の訴外春子、二女の訴外夏子、三女で被告の妻である訴外秋子の四人が相続したが、右戊田の経営継続については、それまで戊田の経営に関与していなかつた訴外春子と訴外夏子及びそれぞれの夫達が経営継続に消極的で意見が分かれたため、結局、原告が全額を出資して甲野興業社を設立し、この甲野興業社が丁原ビルの管理や戊田の経営を行うこととなり、平成二年四月二六日に甲野興業社が設立された。

(3) 甲野興業社が設立された後も、丁原ビルの管理や戊田の経営は実質的に被告に委ねられていたが、被告は、訴外春子や訴外夏子達が被告による戊田の経営継続には反対であることから、その経営基盤を安定させるため、原告が所有している甲野興業社の株式を譲り受けたいと考えていた。そして、平成二年一二月九日、被告の妻で原告の三女である訴外秋子が原告宅に出向いて原告を戊田に伴い、「黄玉」の間で甲野興業社の株主総会が開催された。この株主総会には、原告、被告のほか、戊田の営業部長の肩書きを有する丙田取締役、監査役の戊原弁護士、甲原会計士が出席した。甲原会計士は、原告とはこれが初対面であつた。総会は、食事を取りながら約二時間程度行われたが、席上、被告から原告に対して懸案の甲野興業社の株式を買い取りたい旨の話がなされ、原告の三人の娘である訴外春子、訴外夏子、訴外秋子の三人にも若干の株を残しておくこととなつて、結局、原告の所有する株の七割に相当する一四〇株を出資金の七割に相当する金七〇〇万円で買い取ることとなつた。

(4) そこで、戊原弁護士は、同月一五日午後七時過ぎ頃、本件株式売買契約書案を二通作成してこれを被告に交付した。そして、被告は、右売買契約書案二通に会社に保管してあつた原告の記名印を押捺した上、原告宅を訪ね、原告から原告が金庫に保管していた銀行取引印を出してもらつて預かり、原告の承諾を得た上で本件株式売買契約書二通に原告の銀行取引印を押捺した(なお、右押捺日が平成二年一二月一五日なのか同月一七日なのかについては当事者間に争いがあるが、右捺印そのものについては当事者間に争いがないので、右いずれの日かについては強いて特定の必要はない。)。その後、被告は、原告が指定した丙川信託銀行丙山支店の原告の口座に右代金七〇〇万円を入金した上、同月二一日にこれを定期預金として右預金証書を原告に引き渡した。

(5) この間、原告(大正九年三月二三日生まれ)は、昭和五四年にはパーキンソン氏病、昭和六一年にはうつ病で関東労災病院を受診し、昭和六二年一一月には股関節手術のために同病院に入院して翌年四月に退院したものの、平成二年春には軽度の脳梗塞の症状も出ており、その健康状態や精神状態は、必ずしも安定したものではなかつたが、右株主総会が開催された平成二年一二月九日当日は、出席した甲原会計士によれば、原告に特段変わつた様子は見られなかつたとのことである。また、その時期は必ずしも明確ではないが、原告自身も、故太郎が死亡した後のある時期には戊田の経営を被告に任せようと考えていた時期があつたことを認めているところである。

(三)  右に認定説示したところによれば、本件株式の売買については、平成二年一二月九日に開催された甲野興業社の株主総会で、丙田取締役、監査役の戊原弁護士、甲原会計士の立合の下、原告と被告との間で一応の了解に達し、その日時については争いがあるものの、後日、被告が原告宅を訪れて原告から原告の銀行取引印を預かつて本件株式売買契約書二通に押印したものであることが認められるから、本件株式の売買契約は、他にその効力を否定するような特段の事情が認められない限り、有効に成立したものと考えるのが相当である。

3  そこで、本件株式売買の効力を否定するような特段の事情が認められるか否かが問題であるが、まず、原告主張の再抗弁2(要素の錯誤)について判断する。

(一)  まず、原告は、再抗弁2の(三)において、甲野興業社が原告らから賃貸している丁原ビルの三階から五階部分の借家権価格は約四億円であり、甲野興業社の発行済株式数は全部で二〇〇株であるから、単純計算で一株二〇〇円の資産価値があるとして、原告から被告に対して譲渡された一四〇株の資産価値は約二億八〇〇〇万円のはずであるのに、本件株式売買ではわずか七〇〇万円で授受されており、原告には、本件株式売買の重大な要素である本件株式の資産価値について重大な誤解があつたから、本件株式の売買は要素の錯誤により無効であると主張しているので、この点について検討する。

(二)  《証拠略》によれば、本件で問題となつている丁原ビルの敷地の借地権価格は、平成三年七月頃、一応の試算としてではあるが、約三四億八〇〇〇万円程度と評価されていたこと、右丁原ビルの延床面積は合計三四一一・〇二平方メートルであるのに対して、甲野興業社が賃借りしている右丁原ビルの三階から五階部分の床面積は合計一三〇八・三七平方メートルであるから、その割合は約三八・四パーセントであること、以上の事実が認められる。

しかして、東京都内におけるいわゆる借家権の資産価値については、一般に借家権価格として借地権価格の三割程度と評価されていることが不動産取引の実情であることは当裁判所に顕著な事実であるから、これを前提として右の事実関係から本件における甲野興業社の借家権価格を試算してみると、丁原ビル全体の借家権価格は右約三四億八〇〇〇万円程度の三割として約一〇億四四〇〇万円と評価されるので、その約三八・四パーセントと賃借りしている甲野興業社の借家権価格は、単純計算で約四億〇〇八九万円程度ということになる。もちろん、借家権価格は一階部分が最も高く評価されるべきであるから、右試算がそのまま甲野興業社の有する借家権の正確な価格ということはできないが、一応の試算としては、約四億円程度という評価も根拠のないものではないと考えられるところである。そうすると、甲野興業社の発行済株式数が全部で二〇〇株であり、本件株式売買の対象となつた株式数が一四〇株であることは当事者間に争いがないから、平成三年七月頃の甲野興業社の株式には、一株当たり右借家権価格分として約二〇〇万円(一四〇株で約二億八〇〇〇万円)の潜在的価値がプラスされていると評価することもできないわけではない。

(三)  ただし、会社の株式の評価は、当該会社が有する特定の積極資産に相当する評価額だけを基準として算出するのではなく、当該会社の有するその他の資産や負債総額などをも総合的に評価した上でなされるべきものであり、しかも、右の借家権価格は、将来、借家部分を明け渡すことになつた場合などに顕在化する可能性があるにとどまり、現実には潜在的価値の評価にとどまるものであることをも考慮すべきであるから、本件株式の売買で問題となつている一四〇株の評価が約二億八〇〇〇万円であると断定することも相当ではない。

(四)  しかしながら、《証拠略》(いずれも甲野興業社の税務申告書)によれば、平成三年七月三一日現在の甲野興業社の固定資産としては、右借家権価格の一割にも満たない三六三四万円程度しか計上されていないのであつて、これもまた、相当ではないと考えられる。しかも、右各税務申告書を検討しても、甲野興業社は赤字決算で経営不良という状態でもないから、結局、甲野興業社には相当の含み資産があると評価されるのである。したがつて、本件株式の売買によつて原告から被告に対して譲渡された一四〇株の資産価値が原告主張のように約二億八〇〇〇万円であると断定することは相当ではないが、相当額の評価がなされてしかるべきところであり、仮に、右借家権価格の三割程度を見込んだとしても約八四〇〇万円程度の資産価値があると評価されるべきものであるから、これを七〇〇万円で売買することは、このような経済的アンバランスを合理的に説明するに足りるだけの特段の事情が認められない限り、その売主側に当該売買について何らかの錯誤が存するのではないかと推認されるところである。

(五)  しかるに、本件においては、前記二の2の(二)の(5)で認定したとおり、原告(大正九年三月二三日生まれ)は、昭和五四年にはパーキンソン氏病、昭和六一年にはうつ病で関東労災病院を受診し、昭和六二年一一月には股関節手術のための同病院に入院して翌年四月に退院したものの、平成二年春には軽度の脳梗塞の症状も出ており、その健康状態や精神状態は、必ずしも安定したものではなく、本件株式の売買自体については何とか理解していたとしても、その重要な要素となる価格の決定等については十分な検討をしうる状態ではなかつたと考えられる上、《証拠略》によれば、甲原会計士は、本件株式の売買が実質的に決定された平成二年一二月九日の株主総会の席上、「設立一年目の株式というのは、通常、設立したときと同じ状態と大きく変化はないというのが一般論ですので、額面売買で全く差し支えない。」と説明したとのことであるから、前記のとおり、やや判断能力に劣り、専門的知識も有していなかつた原告としては、本件株式の有する潜在的な資産価値には思いが及ばず、原告の所有する株式の七割に相当する一四〇株を譲渡するのであるから、その値段は原告が負担した出資金の七割に相当する金七〇〇万円で足りると単純に考えたものと推認される。

しかも、本件甲野興業社は、前記二の2の(二)の(2)及び(3)で認定したとおり、被告による戊田の経営継続について訴外春子及び訴外夏子らが反対したため、原告がその資本の全額を出資して丁原ビルの管理や戊田の経営を行う会社を設立して右の問題を調整するために設立された会社であるから、原告としては、この時点において、訴外春子及び訴外夏子らの反対を押し切つてまで被告に対して戊田の丁原ビルの借家権価格に相当する経済的利益を付与する意思はなかつたものと判断するのが相当であり、本件全証拠を検討するも、他に原告がこの時点において被告に対して右の経済的利益を付与するに足りる合理的な事情を認めることはできない。

(六)  右に認定説示したところを総合的に勘案すれば、原告が本件株式売買の必須の要素である対価すなわち売却価額について重大な錯誤に陥つていたことは明らかであるから、本件株式売買は、民法九五条の定める錯誤により無効と判断されるべきである。

4  したがつて、本件株式売買契約は、その余の点について判断するまでもなくその効力を認めることはできず、原告は、現在も本件株式の所有者であるから、この点の原告の請求は理由がある。

三  慰謝料の請求について

1  原告が本件慰謝料請求の根拠として主張しているところは、要するに、被告が高齢で法的にも無知な上脳梗塞等により判断能力も衰えている原告を欺いて不当に低い価額で本件株式を買い受け、原告の信頼を裏切り、原告を悩ませているという点にある。

2  しかしながら、原告から被告に対する本件株式の売買は、平成二年一二月九日の甲野興業社の株主総会の席上、監査役の戊原弁護士や顧問の甲原会計士なども立ち会つている中で相当の時間をかけて平穏に話し合われ、一応原告の意向を出席者全員が確認した上で、戊原弁護士が契約書案を作成し、後日これを被告が原告宅に持参して原告が直接管理保管していた銀行取引印を出してもらい本件株式売買契約書二通に押捺して、一連の本件株式の売買契約が完了したものであることなど前記認定説示のところによれば、被告が殊更に原告を欺いて本件株式の譲渡を承諾させたというものではない。

しかも、原告は、原告が右株主総会に出席した時に、原告の身の回りの世話をしていた付添婦の訴外甲川冬子(以下「訴外冬子」という。)や訴外春子や訴外夏子などが立ち会つていなかつたことなどをもつて、右の株主総会という密室で被告による詐欺・脅迫がなされたかのような主張も一部でしているが、右訴外甲川らを立ち会わせなかつたことをもつて詐欺・脅迫がなされたことの証左としうるものでないことは多言を要しないところである上、本件全証拠によるも右株主総会において原告に対して殊更に詐欺的言動がなされたことを認めるに足りる証拠もないのであるから、原告の右主張を採用することはできない。

3  もちろん、結果的にみれば、本件株式の売買が経済的バランスを欠く不相当なものであつたことは否定できないところであり、この点について原告に重大な錯誤があつたことも前記説示のとおりであるが、本件においては、被告が昭和四九年以来現在まで約二〇年弱もの長期間にわたつて訴外秋子とともに故太郎や原告を助けて戊田の経営に尽力し、戊田が今日あることに貢献してきたことも事実であること、故太郎の死亡後、戊田の営業継続を希望する原告、被告及び訴外秋子と、これに消極的な訴外春子や訴外夏子などとの間で対立があり、戊田の経営を継続するために何とか甲野興業社が設立されたものの、戊田の経営を実質的に任されていた被告はその基盤を安定させるために甲野興業社の株式の買受けを強く希望し、原告においても、ある時期においては被告に甲野興業社の株式を譲渡してその功労に報いたいとの気持ちを抱いていたため、これを期待した被告が原告に対して本件株式の譲渡を求めたという経緯があることや、結局、本件株式の売買が錯誤により無効とされ原告に本件株式が返還されることになるため、原告には何ら実害が発生しないことのほか、これまでに認定説示したところを総合斟酌して判断するならば、被告から原告に対して本件株式を返還させる以上、原告に対して慰謝料という別個の金銭的賠償をも認めなければならない必要性もないというべきである。

4  なお、当裁判所は、本件紛争及び本件審理の全経緯に鑑み、本件紛争を円満に解決するためには、被告及び訴外秋子において、高齢の上、夫に先立たれ、病気にも苦しみ、不安な毎日を過ごしている原告の現在の境遇や、戊田の経営を被告に任せることによつて故太郎や原告の財産が実質的に被告とその妻である訴外秋子(三女)に帰属してしまう結果になることを危惧している訴外春子(長女)や訴外夏子(次女)やその親族などの微妙な立場や感情にも十分に配慮して行動しなければならないことは当然のことであるが、他方、原告や現在原告を擁している訴外春子や訴外夏子などにおいても、被告が約二〇年もの長きにわたつて娘婿という不安定な立場に甘んじながら故太郎や原告を助けて戊田の経営に当たり、結果的に故太郎や原告の財産形成にも寄与していることに思いを致すことが必要不可欠であろうとの感を禁じ得ない。本件紛争及び本件訴訟の関係者全員が相互理解を第一義として節度をもつて行動し、無益な紛争を早期に収拾して平穏な家族関係を回復するよう切望していることを特に付言するものである。

四  結論

以上の次第で、原告の本件請求は、原告が本件株式を所有することの確認を求める限度で理由があるから、右限度でこれを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条及び九二条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 須藤典明)

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